寝屋川市小学校事件 2005-02-15 (火) 02:24:32+09:00

日記

また小学校への乱入・無差別殺傷事件が起きた。また大阪府だ。また17歳だ。

池田小の事件を思い出した。今回は、犯人の少年は母校の職員室と教師を標的にした。池田小の事件では、児童が標的になった。

共通するのは、「他者への恨み」ではないか。

池田小の犯人は、社会全体に対する恨みを募らせていた。今回の少年は、学校という場に恨みを抱いていたと直感できる。少年は応対した教師に「職員室はどこですか」と質問し、実際そこに向かった。

背景に、他者とうまくコミュニケーションをとる能力が何らかの要因により欠如したため孤立が続き、うまくいかないことで苛立ち、他者を恨み、周囲に対してささくれ立った精神状態となり、ますますトラブルとなったり自閉してしまう、…そんな負の循環があったのではないか。そして終に爆発したのではないか。

今では誰でも知っている「不登校」なる言葉も、かつては無かった。この言葉が一般化したのには、当然ながら登校を拒絶する児童生徒が増え続けていった結果、社会も認知を余儀なくされ、「不登校である」なる現象が徐々に社会に受け入れられていったからだ。それだけ、学校という場には、無理があるのだ。

日本の学校空間は、言うまでもなく硬直している。強制等質化マスプロダクションであり、自然発生した仲間集団ではない人工的集団の中に、強制的に拘束される。その中でそれなりにやっていけるならよいのだが、前述のコミュニケーション能力の問題など様々な要因により、その社会に適応が難しい者にとっては、まさに生き地獄となる。自我の形成やコミュニケーション能力のトラブルを抱える子どもは、今日非常に多く存在するようになっている。

そんな子どもには、硬直した学校しか行くところがないのだろうか。いや、フリースクールや在宅での学習、学校復帰に向けた短期入所施設など、場所や方法はある。しかし体制は十分でないし、そういった場所に通わせるということへの子どもの家族や教師や社会の側の積極的でプラスのイメージ、それらを選択することは当たり前なのだ、それでよいのだ、という認識こそ十分でないのだと思う。精神的問題の治療のために精神科に通うことに、いまだに非常にマイナスのイメージがもたれて続けているようなものだ。

自分の講師赴任先の小学校でも、いじめが原因で不登校になった児童を毎日強制的に登校させ続けた。その児童は最終的に復帰したが、教室に入れず朝から孤立して泣く状態が数ヶ月続いた。硬直の典型だと感じた。いたたまれなかった。この国の認識レベルの進歩など、その程度なのだ。

今のままでは、不幸な殺傷事件がこれからも増加続発する。そんな気がする。学校は、そんな子ども達に世界を恨む負の循環を学習させる役をもちつづけていてはいけない。学校以外の場の確立連携を通して、不幸な循環の芽に気づき、心の正の循環を教えられる場の一つとなることが求められている。