深夜の坂を登り、夜霧の海に潜る。
車の震えが、聞こえるすべて。
やがて、駅に着く。
━━━第一展望台。
扉を開き、海に潜る。
ヘッドライトが照らしてくれる数m。
その先に、何が待つだろう。
霧間からみえるのは━━闇。
呑まれて沈めば永久の命。
震えつつ、奮え。
ただひとつの願いを。
カムイヌプリ。
なんだ…もう夏なのか。
うまくいくまでとまったままの頭の中と、時の流れの差がはげしい。
このまま、本当に停止しそうな時の渦に飲まれて3ヶ月ほど錐揉みしている。
そんな中で、気づいたことを2つ、書き記しておこうと思う。詩にみえるかも知れない。気がふれたと思うかも知れない。自分にとっては、 ただ真実がそこにあるからそれでよい。
生きている間 人は優しくなれない
死んでもなお 深い恨みに囚われつづける
でもそこから 解放されることもある
それができるのは 恨みを忘れ人の幸せを願う 心 ただそれだけ
世界はひとつだけではない
数多くの別の世界が 今まさに存在したり していたり これからしたり する
極端な話 われわれの世界で 誰かが書いた物語
それすら 別の世界では実在するということが 時には ある
そして めったにないことだが 別々の世界の間で 人と人が 絆を結び合い 愛し合うことすら ある
世界は広く深く 不可解で 神妙で 素晴らしい
- 1: 少年育成 (07/05 17:47) hodoukyo(あっとまーく)m5.kcn.ne.jp
- ご無沙汰しております。ご迷惑かと思い連絡をためらっておりました。お元気そうで安心しました。北海道はいかがですか? もうすぐ夏休みですが、帰省された折にはぜひお立ち寄りくださいね。
- 2: 冬星 (07/05 23:21)
- メッセージありがとうございます。そちらの方はお元気そうでなによりです。
お気になさらず、私信をお送りくださいな。
ほぼ毎日麦酒をやっているのだ。
最近タイムリーなことに、各社新しい銘柄を数多く打ち出して競っているので楽しい。第三のビールは別にして、贅沢ではあるが高級志向を目指しいろいろな方向性を打ち出しているようだ。
昔中国茶をかじったときもこんな感じにタイムリーに中国茶が流行ったのを思い出す。
さて、色々やって自分的にはサッポロの「北海道生搾り」に落ち着いた。いや、プレミアムモルツ並みのラインには手を出していない。高すぎる。といいつつ「畑がみえるビール」は試したりしているが…。
その結果「北海道生搾り」なのだ。
ここ数日は毎晩「北海道生搾り」している。
が、しかし、酔わないのだ、全然。
酒がほとんど飲めないからビールなんぞをちびちびやっていたのに、500ml一気に入れてもちっとも酔わないので、つまらないのだ。つまらないが、他に渇きを潤すものも思い当たらないので二日酔いではなく頭が痛い。
物語を味わう深みとして、映画を例に映像作品の物語性の上下を考えたい。(当然フィクションが対象。)
一番下の下は、米国製ハリウッド映画だ。アクション。
敵は明白に悪。主人公は正義。ドンパチやって倒しておわり。なんのオチもない。敵を倒して唐突に終わるのが特徴。そして間にセックスシーンが無理やり挿入される。大衆娯楽映画と呼ばれる部類の中でも最も下賤で価値が低い。
次にくるのは、紋切り型。『水戸黄門』のように話の運びが決まりきったものだ。シンデレラ物(あるとき助けられて幸せになる。王子様とゴールインでハッピーラッキー物。)、ドラキュラ物とか、超能力者物(主人公には特別な力がある)、ドラエもん(アイテム。とにかくアイテム)、少年ジャンプ物(主人公と戦って負けた敵は味方になる)などなど。初めて新しいジャンルができたときは新鮮だが、以後は飽き飽きする。
その次、悲劇物。救われない話。とにかく辛くすればいいというタイプ。逆に、大笑いできる話でいい話がつくれたら、それは凄いといわざるを得ない。
わりといいものは、愛やふれあいに感動できるもの。愛にも色々ある。男女の愛、人類愛、動物や自然への愛、世界への愛などなど。決してセックスのことではない。セックスは愛に与えられた祝福のようなもんだ。
さらにいいものは、人間というものについて、深く考えさせられるもの。救いがたい習性や、変らない人間らしさのよさ、醜い部分…。それらが絶妙に盛り込まれたものは素晴らしい。
ノベルゲームでもかなり当てはまると思う。物語を作るなら、このあたりをよく考えて、自分が目指すのがどのレベルか決めてかからないと失敗するだろう。
毎日のように大量生産されているノベルゲームの少なからぬ割合のものが:
主人公の両親は、海外赴任中/死別/旅行中。
主人公は、幼馴染のいる田舎の町/村へと一人で戻ってくる。
…と、このような設定になっている。特に前者(主人公には両親がいない状態)は異常に多い。駄作はまだしも、知名度の高い大手の作品、すごいと言われる名作までもが、誰も彼もみんな右へ倣え。この設定なのだ。
映画やTVドラマ、漫画などの他のメディアで、このような設定の偏りが許されるだろうか。あの映画もこの映画も主人公の両親は海外赴任中で、この漫画もあの漫画も、主人公は幼馴染のいる故郷の町に一人で戻ってきたところから話が始まる…バカみたいである。
そんなもんを出すのに1年2年、下手すると3年以上発売延期を繰り返すところもある。こんな状態ではノベルゲームそのものが遠からず廃れるだろう。むしろ既に飽き飽きされている状態であろう。それでも本数が減らないのはエ○が偉大なだけだ。ビデオと状況がまったく同じだ。
自分は、エ○作品を作りたいわけではないので、そういった数の上では大多数のノベルゲームには興味が無い。むしろ、たとえば Key や LEAF の一部作品など(例えがフルすぎるか?)の、はじめから全年齢を対象に楽しめることやアニメ化をターゲットとした作品を作っている領域で考えたいのだ。しかし、こういった領域でもやはり上述の現象は変らないのだ。だから嘆くのだ。他のメディアの爪の垢を飲め、と。
脚本家達は、今一度海よりも深く反省して考えなおして欲しい。ノベルゲームというメディアの構造が原因だとか、両親がいたら話を運びにくいんだ、とかなんとかぐだぐだ責任転嫁してる暇があったら、黙って成果を出そうよ。
「ノベルゲームって、両親が海外赴任か死別で、幼馴染の町へ帰る話を遊ぶためのメディアだよね。」などと揶揄されるような情けないシナリオ作りから早く脱却して欲しいものだ。