記事中で、ソースコードを引用しやすくした。具体的には、{大なり、小なり、ダブルクウォート、バックスラッシュ}について、”<”などというふうに置き換えるようにした。
方法としては、置き換えたい部分を選択して「記号」ボタンを押すと、選択文字列を調べて置き換えるというやり方にした。
しかしここで問題が…。そもそも記事中にタグを使用できるようになっているためか、一度投稿した記事を読み込んで修正するときに、上述の置き換えが逆変換(元に戻される)されてしまうようだ。どこでそれをしているのか追いきれない。(というかそろそろ空が白んできている。かなり眠いのだ…。)
まぁ、読み込み時に元に戻ってくれた方が、”<”とか書かれているよりソースを読みやすいのは確かだし、ソースの一部の色を変えたりタグを挿入したりすることもありえるだろうし、そうすると自動対応させるのはちょっと無理っぽい。手動の今の仕様でいいか。
正解がみあたらないことが多すぎる。一例をあげてみよう。解いてみて欲しい。(教員試験の例。)
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(問い)コンピュータについて述べた次の文のうち,正しいものの組み合わせを選べ。
(1)操作の対象が絵(アイコン)で表現されるユーザーインターフェイス,またはそれを実現するソフトウェア製品をGUIという。
(2)デジタル信号で情報を区別,分類する機能をデジタル・デバイドという。
(3)ハードディスクの中で,ファイルがバラバラになって書き込まれているのを整理して,できる限り連続したユニットに移動して,ファイルを速く開くことができるようにするツールをスキャンディスクという。
(4)データの読み出しだけが可能なメモリはRAM,読み出しも書き込みも可能なメモリはROMである。
(5)Webページを閲覧するためのアプリケーションをブラウザという。代表的なものにInternet ExplorerやNetscape Navigatorがある。
[1]-(1),(3) [2]-(2),(6) [3]-(4),(5) [4]-(2),(3) [5]-(1),(5)
(正解)[5]
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どうだろうか。正解の組み合わせに入っている(1)が、ムチャクチャである。GUIの定義?この定義だとGUIとは、ソフトウェア製品のことらしい。頭痛がする。
GUI(Graphical User Interface)とは、グラフィック表示機能を用いたユーザーインターフェイスのことである。アイコンなどあろうがなかろうが関係ない。よく比較されるCUI(Character User Interface)は、グラフィック表示機能を用いずキャラクター表示機能のみで構成されたユーザーインターフェイスのことであり、それとの対義語になっているのだ。ましてや「操作対象をアイコンで表示する機能を実現しているソフトウェア製品」を「GUI」などと呼ぶことはない。
とりあえず「操作対象をアイコンで表示する」などという特定の表現方法のことを言うのではない、ということだけでもわかってから出題してくれないと、受験生は正解をマークできない。これの出題者は、IBM様のサポートページでもどうぞ。このぐらい噛みくだいてあれば理解できるのでは…。
数学なんていう厳密な領域の出題に、こんなのがボロボロ出題されている。どれもコンピュータの用語問題だ。問題として成立しえない問題しか出せないのなら、もう出すのをやめて欲しいと思うのだ。仮にも国家試験の合否を決める問題なわけだし…。
業務から帰宅してから、メビウスノートで観ました。(画面は NANAO ですが。)
いやぁ、いいっすねぇ。(笑)
今日感じたのは、音楽性についてです。この作品バイオリンのソロとピアノがよく出てきます。サユリがバイオリンを弾いていたこと、一途なヒロキが彼女を想って独りで練習していたことなど、ストーリー上のキーになっているバイオリンのソロ曲のバリエーションが多いんですが、ピアノもソロが多いです。聞いていてなんとなく、予算と音楽制作力のない量産型ノベルゲームのBGMを彷彿としてしまった…というのはおいといて(笑)、作品としては、話のもつ雰囲気をよく考慮して、統一性のある、よい制作をしておられるなぁと感じました。そのへんの統一性への配慮は、感情表現を音で表す部分でも、弦楽器やピアノのソロ奏法で、人物の心理的ショックなどをシンプルかつ効果的に表現しているあたりにも感じました。
この「映像作品に流される音楽の、作品に対する統一性」は、昨今のアニメーション作品においては目も当てられない状況だと思います。たとえば極端な話、TVシリーズでは、作品のストーリー性にジャストフィットしているとはとうてい思えないような、今流行のPOPS歌手の歌でも流してしまえ的やり方が一般化しているのが最悪ですが、映画作品でもなんというか、厚みはましているけれど、「本当にその作品の世界観をより深められるような曲を作曲したり、楽器を選択したり、奏法・感情表現への参加の仕方をしたりしているのか?」とふりかえって聴きなおしてみれば、なんとも不恰好というか不釣合いというか、凸凹な感じがしてしまうような気がしませんか?
もともと日本人の音楽に対するセンスは、やぼったい気がします。巷で量産されているPOPS、BGMのうすっぺらいこと!…構成的に何ら目新しくもなく、歌唱法としても、きざったらしいクセがなんとなく味があれば「俺もいっぱしのPOPSシンガー」…みたいな。
そのへん、「雲のむこう…」でも確かに、シンプルなクラシック調…というそれ自体は、音楽センス的には「やぼったい」と言われてもいたしかたないでしょう。でも、ヒロキやタクヤ、サユリという青森のいなかの初々しい中学生(&高校生)の心象世界、その作品性とジャストフィットしているので正しいわけで、それを狙ってやっているのだからプロの仕事です。逆説的になってしまいますが、だからこそ、昨今の他の商業映像作品やノベル作品の音楽のでたらめさが際立ったというか…。(涙)
あと、音そのものをどうやって作るのかということも、派生して心に浮かびました。ノベルゲーム類は当然ですが、最近映像作品もわりとMIDI音源などシンセで曲がつくられたりします。予算がないとか、その曲が電子音で表現したい性質の曲ならばしょうがないんですが、なんでもかんでもシンセ音源で間に合わせてしまうのはどうかと思います。シンセの四重奏とかオーケストラを聴いてるとなんだか胸やけがしてきます。生きた演奏じゃないというか、いろんな要素が欠けているからか「のっぺり」した「うすい」感じ、コンクリートで固められたような印象が起きます…。
音源だけで曲づくりするなら、楽器ごとの演奏時の発音と奏法の特徴をシミュレートしたり、楽譜に対する演奏者ごとのクセを反映させたり、ピッチや奏法にある程度の幅のゆらぎ(ズレ)をシミュレートしたり、空間内に配置された各楽器の位置と向き固有の反響音をシミュレートしたり、指揮者を設定して指揮者特有のクセをシミュレートしたりできれば、ある程度マシになるかも知れないと思います。技術的には可能かと思うんですが、そういった処理をコントロールできる統合制作環境ってあるんでしょうか??
…ただ、あまりややこしいことをするぐらいなら、生楽器で表現するタイプの曲は、素直に生演奏で、それにくわえて作品にあうような曲の割り当てと演出をかけてやったほうがいいんではないかと思います。
また小学校への乱入・無差別殺傷事件が起きた。また大阪府だ。また17歳だ。
池田小の事件を思い出した。今回は、犯人の少年は母校の職員室と教師を標的にした。池田小の事件では、児童が標的になった。
共通するのは、「他者への恨み」ではないか。
池田小の犯人は、社会全体に対する恨みを募らせていた。今回の少年は、学校という場に恨みを抱いていたと直感できる。少年は応対した教師に「職員室はどこですか」と質問し、実際そこに向かった。
背景に、他者とうまくコミュニケーションをとる能力が何らかの要因により欠如したため孤立が続き、うまくいかないことで苛立ち、他者を恨み、周囲に対してささくれ立った精神状態となり、ますますトラブルとなったり自閉してしまう、…そんな負の循環があったのではないか。そして終に爆発したのではないか。
今では誰でも知っている「不登校」なる言葉も、かつては無かった。この言葉が一般化したのには、当然ながら登校を拒絶する児童生徒が増え続けていった結果、社会も認知を余儀なくされ、「不登校である」なる現象が徐々に社会に受け入れられていったからだ。それだけ、学校という場には、無理があるのだ。
日本の学校空間は、言うまでもなく硬直している。強制等質化マスプロダクションであり、自然発生した仲間集団ではない人工的集団の中に、強制的に拘束される。その中でそれなりにやっていけるならよいのだが、前述のコミュニケーション能力の問題など様々な要因により、その社会に適応が難しい者にとっては、まさに生き地獄となる。自我の形成やコミュニケーション能力のトラブルを抱える子どもは、今日非常に多く存在するようになっている。
そんな子どもには、硬直した学校しか行くところがないのだろうか。いや、フリースクールや在宅での学習、学校復帰に向けた短期入所施設など、場所や方法はある。しかし体制は十分でないし、そういった場所に通わせるということへの子どもの家族や教師や社会の側の積極的でプラスのイメージ、それらを選択することは当たり前なのだ、それでよいのだ、という認識こそ十分でないのだと思う。精神的問題の治療のために精神科に通うことに、いまだに非常にマイナスのイメージがもたれて続けているようなものだ。
自分の講師赴任先の小学校でも、いじめが原因で不登校になった児童を毎日強制的に登校させ続けた。その児童は最終的に復帰したが、教室に入れず朝から孤立して泣く状態が数ヶ月続いた。硬直の典型だと感じた。いたたまれなかった。この国の認識レベルの進歩など、その程度なのだ。
今のままでは、不幸な殺傷事件がこれからも増加続発する。そんな気がする。学校は、そんな子ども達に世界を恨む負の循環を学習させる役をもちつづけていてはいけない。学校以外の場の確立連携を通して、不幸な循環の芽に気づき、心の正の循環を教えられる場の一つとなることが求められている。
今年もよろしくおねがいいたします。
2005年元旦